昭和48年01月27日 朝の御理解



 御理解 第39節
 「此方の行は水や火の行ではない。家業の業ぞ。」

 よく間違えて、金光様の信心は家業の業と仰るからと、家業の業がそのまま信心のように思うておる人がある。一生懸命働く金光様の信心は家業の業だから。所謂それでは信心にならんのです。ここにはどこまでも、此方の行はと仰っておられる。行という事は勿論どの様な事にでも、行は伴うものでしょうけれども。取分け信心においてはそうです。所謂信心に修行はつきものと仰る。ですから行と信心は別々でしょうが。
 それにあんたちったお参りしなさいと言われても、私はもう家業の業で、家業を一生懸命しよるから、それが金光様の信心のように言う人がある。それで本当じゃない。成程一生懸命に働きますから、人の信用もつくかも知れません。又人よりも儲けだすかも知れません。けれども昨日から頂きますように、同じ信心させて貰うなら、ただ信心だけではなくて、真の信心をさせて貰おうと。昨日の御理解でしたよね。
 ですから勿論真の信心を目指させて貰うのですけれども。真の信心をさせて頂くという事がです、その修行が必要なんです。真の信心をさせて頂く、それには修行が必要。私はここん所を皆んな間違えとるようです。仕事に大変忠実な辛抱強い真面目な人に限って、そう言う様な事を言うですね。自分なもう一生懸命家で働きよる。いうなら金光様金光様で働きよる。
 だから金光様の行は家業の業と言うちゃるけん、お参りせんでもよかという様な頂き方をしとる。ハッキリ言うてここでは信心ちゃ言うちゃなか、此の方の行はと言うておられる。此の方の行は水や火の行ではない家業の業と。だから信心と行は別ものなんだ。信心に修行はつきものである。かと言うと今度は信心の方だけは一生懸命するけれども、家業の業を疎かにして、そして火の行やら水の行やらする人達も、金光様の信者の中にでもあるし、普通で言う今までありきたった日本の宗教はそれです。
 一生懸命拝むそして火の行水の行をする。だから金光様の信心は、そういうものではない。信心修行をさせて頂いて、信心と修行が伴うて行かなきゃいかん。そして例えば仕事嫌いの不精者の人であってもです、段々家業の業に忠実にならせて貰うて。そんなら家業の業、そのものに忠実になる事の楽しみが出来る、喜びが生まれて来る。それが神様が修行として受けて下さるのですから、愈々おかげを受けて行く事になるのです。家業の業とと言うてそんなら、火の行やら水の行していけんと言うのじゃない。
 その上に尚且つ水をかぶって、毎朝お参りしてきておる人達が沢山あります。寒行中はお水を頂いて来る。いわゆる断食をさせて貰うと言ったような、表行もしてはいけないというのではない。それを愈々行を行たらしめる為に、そういう修行も又場合によっては、させて貰わなければいかん。止むに止まれん思いが起きて来る場合には、させて貰うがええ。取分け若い時にはひとつ本気でやってみるのもいいですね。
 なぜ信心と行とが伴わなければいけないか。しかも教祖が仰るなぜ家業の業を忠実に、それを修行と思うてさせて頂かなければならないか。あるお道の有名な先生ですけれども教学の先生です。そしてね信心をしておかげを頂く、所謂ご利益を受けると言う事。それはまったく神経の作用だとこう言っておられる。お道の先生ですよ。神経の作用だと。神様のおかげを、例えばお金を作って下さったり、病気を治して下さる働きというものは、神様じゃないんだと。それは信心をさせて頂きよる者がです。
 例えば沢山お供えしたりすると、そがしこ打ち込んどるという気持ちがですね、これはこれで、病気は治るだろうと言った様な神経が起きて来る。その神経が病気を治すのだ。四神様も、それによく似た教えをしておられますね。氏子信心しておかげは神から出ると思うな、氏子の心から出るのぞと仰っておられる。確かにこの神経の作用と言う事も私は大した事だと思うですね。
 昨日四時のご祈念をさせて頂いておりました。ここ一日二日どうかこう胃の辺が、痛みはないけれども妙な風。御神前でご祈念しながら胃癌でどんじゃなかろうかと思うた。それでもいくら胃癌でも、神様のおかげを頂けばよいからと、又胃癌じゃなかろうかと思うた途端でした、もう胃から水がじょくじょく上がって来るんです。もう私は驚いた。こういう時に私は神様が、人間の体といった様なのは、痛いとか痒いなんかは本当は、自由自在だなという事を思うのです。ですから御祈念中でしょう。
 ですからじょくじょく上がって来るとを、飲まにゃ仕方がない。それで私色々思わせて頂いたんですけれどもね。例えば御神米を頂いたりお神酒さんを頂いたりするのは、御神米そのものにいうならば、力があるのではなくて頂く方の心神経でおかげ頂くんだ、神経で病気が治るんだと。確かにそういう事がありますね、例えば酢っぱいものを思うただけでも、生水が上がってきたりする神経ですよやっぱり。
 けれども私は思うのに神経ででもいい、病気が治ったりいわば財産が出来ていったり、人間関係が良くなるなら。だから信心とはですね。その神経をです、おかげの頂く方へ、おかげを頂く方へと、使わせて頂く稽古なんです。私はこの三十九節を聞いて貰う時、いつも思うんです。三十九と言うのは、サンキュウと言うことである。サンキュウという事は、有難しという事である。だから信心に行は付きものであるが、その行はねどういう事の為かと言うと。
 心が有難うならせて頂くための修行です、金光様の信心は。いうならば神経が有難うなってくる。どんな場合であっても、それが有難うなってくる。どんな事でも、有難い有難いと言う。だから脇から見ると馬鹿のごとも見える。それを、少しの学問を致しておりますとです。その学問が、邪魔をすると言うのは、そういう事なんだ。だから信心と言うのは、そういうおかげが受けられる、病気でも癒すだけの。
 いわゆるお金儲けならお金儲け、お金が入ってくるような、心の状態を作っていく事。そういう神経が働く。ここんところを四神様は、やっぱり自分の心から頂けれるんだぞと、神から出るとは思うな、と仰るとこはそう言う所じゃなかろうかと思う。そんならそれはどう言う事かと言うと、そういう例えば病気を致しましてもです。そこでそんなら。私が、昨日からおかげでそれでお水が、ここの中から出るですから、いっちょんお水は頂かんでよかです。自給自足が出来とる。お水を頂かにゃん。
 そんなら私が糖尿病でお水を沢山頂くという時に、糖尿病だから頂くとは、私は一つも思ってない。このお水でねお腹の中を正常にして頂くと言う、清まらせて頂くという思いだけしかないです、私がお水を頂く時には。それも喉が渇きますから、何ぼでもガブガブ飲める。だからドンドンドンドン体を清めて頂くんだと言う。それは嘘か本当か分かりません。けれども私はそう思い込んでいるんです。
 ですから例えば私は昨日御祈念中にこれは、胃癌ではなかろうかと。けれどもいくら胃癌であっても、おかげ頂けれるのだからと言う事は、素晴らしいですね。例え胃癌でも心配にならない。けれどもそれよりかもっと素晴らしい事はです。糖尿病であっても私がお水を頂いておるとが、糖尿病だから頂くのじゃない清めて頂く為に頂くんだと、いう様な頂き方はもう私の神経というものがね、その様な思い込みが出来てきた。
 それはどう言う所から出来てきておるかと言うと、日々の信心と修行とが伴うておるから、そう言う事が思い込めれるんです。皆さん御無礼ばぁっかりしとる時には、敷居が高うして、神様にお願いすらし難いでしょうが。信心と修行がぱっちり出来とる時なら、どういう御無理をお願いしても、聞いて下さると言う神経が働くです。それがおかげを頂く事になる。昨日福岡の高橋さんのお母さんと、久留米の寿司勝の女将さんと、二人でお参りをして来た。まぁ色々お届けのあった後でした。
 私もそうにゃ色んな神様やら、仏様やらを拝んだという訳です。所が三福の大将が、合楽にあぁして一生懸命にお参りされる。とても話を聞くなら、私どんが真似の出来るこつじゃないけれどもです。けれども高橋さんが大学を出て、そして法学士の肩書を持っておりながら、しかも専攻された自然科学かなんか、あんなのを専攻しておられる、高橋さんがです。合楽の信心にあれだけ打ち込まれると言うこと。いうならば勉強した人色んな勉強を、色々した人理屈も言う人が理屈抜きに、合楽に傾倒しておられる。
 もう私はあれだけで、合楽の金光様は素晴らしかろち思うと言うとります。そんなら高橋さんの信心を、私が思うて見る時にですたい。例えば勿論そういう神経作用という様なものが、おかげを頂く方へ頂く方へと、段々自分の心がそれこそサンキュウじゃないけれども。一切を有難い有難いと受けて行けれる、神経が心の中に段々出来てくると言う事が信心。だからこれは仏教で言う自力と言うとか。
 他力と言うのと意味は大変違いましょうけれども。まぁ今日ここで使うならですそういう信心を、私は自力だと思うですね。一生懸命信心と修行が出来てくる。そして自分の心の中におかげの頂けれる、おかげをキャッチ出来る所の神経というものがです。これに確固たるものになって出来てくる。ところが金光様の信心は、それだけではないのです。いうなら、これを他力とでも申しましょうか。例えばそんなら高橋さんの例を取ったが、高橋さんのような信心をなさっておられますとですたい。
 心の中に商売がどんどん繁盛するような心の状態というか、神経の作用が、あのような、現在、繁盛を見ておると致しますか。昨日北野の中村さんところの娘、恵美子さん、福岡に行っとります、福岡におります。その恵美子さんのご主人の兄弟になる人が、日田に居ります。先月からもう医者も見放す程の病気でした。もう医者も助からんち言う。そこで、いち早く、恵美子さんからお取次ぎのお願いがあった。
 そしてその自分は全然意識が無いのですから、その無意識の中に手術やら種々あったんだそうですけれども。その間に不思議な事ばっかりあったち言うんです。そしてその後に、兄嫁になります恵美子さんに、姉さんから金光様にお願いして頂いとった。そうじゃろうち思う。とても不思議な事ばっかりあったち。もう兎に角お医者さんが、たまがられる程しにおかげを頂いた。そして今日こうして健康でお礼参りが出来るほどしのおかげを頂いた。これなんかはその人にそういう神経がある筈は無いでしょう。
 良くなる迄は金光様にお願いして貰うとるち言う事さえ知らんのです。是はだからもう完全に他力と言ううより外にないでしょう。そういう例は例えば今日私が申しております、信心と行が伴うて行くと言う。そういう修行が出来て行く内に、自分の心の中、おかげの頂けれる神経というものが強くなってくる。全てを有難く本当に受けれる心の状態と言うものは、病気を癒す力にもなり例えば財産が出来ていく力にもなり、もう人間関係なんかは、勿論そこに和の心の働きと言うものが出来るのが有難い。
 けれどもそういう信心させて頂きよりますとです。とても潜在意識とか、神経とかとは言えたり、思えたりしない程しのです。いうならば霊妙不可思議な働きと言うものを体験する事が出来るのです。だから信心の無い特に学問のある人達はです、例えば信心する人を軽蔑します。あげな事は神経だと。医者が治す力を持っておる事もなからなければ、薬が癒す力を持ってる事は無い。
 本当言うたら、神様のおかげを頂かなければ、出来るこっじゃない。そう言う所をです、本当に分かった医者を立派な医者だと私は思う。いうなら気休めと言うても良いかも知れん。所謂お医者さんにかかっとるからと言うて、神経が病気を癒すと言う事になるのかも知れない。けれどもその根本のところにです、神様のおかげを頂かなければ、どうにも出来ないものを、私が治した様な思い方。
 私の治療で治ったといや是は医者だけの事だけじゃありません。私共が様々な場合に私がと言った様な者が、段々私共の中から姿を消して行く。そしてある者は有難い。その有難いと言う者がです。おかげをキャッチして行く訳です。仏教で言う自力他力と言うのは、もっと深い色んな意味合いがある事と思いますけれども。分かりやすく言うならです。今日私共が何故信心と行というのが別々で、そして何故しとらなければならないかと。幾ら、家で一生懸命働く、なる程それは財産は出来るかも知れません。
 人から信用を受ける事が出来るかも知れません。よう働くと言う事だけででも。けれども是では私は他力に合う事は出来ないと思うです。信心してそして修行とが伴うて、自分の心の中におかげが頂けれる、おかげは神から出ると思うな、わが心からと仰るその心が信心とは、修行によって出来てくると同時にです。そこから他力と思わなければ居られないという信心が出来た時にです。もう素晴らしい事になるだろうと思います。
 功心は功を忘れる所に有ると言う。功心。自分はこういう忠義を立てた。三代様はそこんところを「私には、何の功も無いのですから」と仰せられておる。あれだけの御信心が出来られておりながらです。私がこれだけの事したという思いは、さらさらお有りにならない。私には何の功も無いのですからと。東郷元帥がアメリカで戦争のあった後に、招かれてお出でられた。
 それで公会堂の様な所で、みんなが元帥の話を聞こうと言う事になった。その時に「私が、日本の東郷でございます」と言うて壇を下がられたと言う。もう皆はビックリしたんですね、あんまり簡単な事だったから。けれども後から分かれば分かるほど、なる程軍神として仰がれるような方であった、自分の功と言う事は一つも言われなかった。そして後から話された時に、「あれは、天祐です」と言われたげな。
 だから医者に掛かって死ぬる者もあれば、医者に掛からんでも死ぬ者もある。良うなる者もあれば、医者に掛かって良うなる者もある。そう言う所の根本の所にです。天祐神の助けなければと言う所が分かった時、私は本当の有難いサンキュウと言う。有難いと言うのはそういう時だと思うのです。信心というのは有難くならせて頂く稽古。
 それにはどうしても、此の方の行は、火や水の行じゃない、家業の業と仰る、家業の業が信心によって、しっかり信心修行と思うてさせて貰うと同時に、信心がなされて合い間って行くところからです。今日私が申しましたような、いうなら自力と他力と言うのが、一つになって、自分の心でおかげをキャッチするだけではなくて、そこには霊妙不可思議な神の働きを、又受け止めて行く事も出来る訳なんですね。
   どうぞ。